(聞き手)
駒月さんにお聞きします。その後、発災からだいぶ経った後に入られたと思いますが、その時の避難所支援の内容をお教えください。
(駒月様)
私達11班は、マイクロバスに乗って現地に入りました。
人数は10人位でした。すでに避難所の統合が始まっており、3~4カ所になっていました。
その内の一番大きな多賀城市総合体育館へ4名の
職員で伺い、支援を行いました。
私の
派遣の経緯ですが、女性の
職員の
派遣は、私が
派遣される半月前の第5班で初めて
女性職員が1人
派遣され、現地の方々、特に女性に評判が良かったということがきっかけとなったようです。
男性の
職員へは、言いにくい事や相談しにくい事もあるという事が現地の声として上がったため、
女性職員の
派遣をしたいとのことで、人事課の方から直接お電話をいただき、
派遣されることになりました。個人的には被災地支援に行きたいと思っていましたが、仕事の関係でなかなか折り合いがつかなかった時でして、そのような状況でお話を頂いたものですから、これを機会として、何か力になれる事があればと思い、
派遣を希望しました。
総合体育館の避難所運営を主に担っていたのは応援
職員ではなくて、日頃はスポーツ施設を運営している多賀城市民スポーツクラブというNPO法人でした。
そのスポーツクラブが中心となり、愛知県と三重県、岐阜県の
職員それぞれの応援
職員がいました。
主に、愛知県はトータル的な避難所運営、三重県は食事の担当、そして、岐阜県は保健衛生を担当していました。
私が
派遣された時、避難者の方は高齢者等が多く、トイレの掃除や風呂場の掃除も皆さんでできる状況ではなく、避難者数も多く、大規模な避難所になっていましたから、食中毒などの防止の為に、毎日手すりを拭くなど消毒して歩くという仕事をしていました。
あとは、食料品以外の支援物品の管理と、ボランティアの方々の管理のお手伝いをしていました。
配食の
業務を三重県と一緒に行い、自衛隊さんから温かい食べ物の提供を受けていました。
また、この時、岐阜県では「きずな便」としてお持ちしたパンを避難者の方にお渡しするという
業務も行っており、
私が行った時はちょうど第2回目の「きずな便」が到着したときでした。
当時、避難所のパンの提供は、菓子パンや惣菜パンが多く、自衛隊さんからシチューやカレーなどを用意していただいたのですが、食べ合わせが悪いとのお話が出ることもありました。
そうした中、「きずな便」として岐阜県内のパン屋さんの好意のつまったパンを避難所でお配りできてよかったと思いました。
また、
女性職員がまた来てくれたという事で非常に喜ばれました。
特に女性には喜んでいただきました。
物資で足りない物があっても男性
職員に「これをください」とは言えない物がたくさんありますが、そういうことも気軽に言えるといっていただけました。
他に、支援物品がたくさん来ていましたが、男性
職員だとどう配っていいのかよくわからない下着とか、化粧品とか、そういう物が凄く溜まっていまして。NPO法人の
女性職員の皆さんと一緒に配布して、被災者の方に喜んでいただけました。
(聞き手)
初めての
女性職員の
派遣が5班の時で、その次が駒月さんになるとのことですが、その後も、
女性職員は
派遣されていますか。
(松本様)
第5班の時はある意味、チャレンジで女性を出してみようということでしたが、この頃になると初期段階の指名制とは少し変わってきて、やはり行ける人間に、ある程度応募なり手を挙げてもらうという作業をしていましたので、各部で
希望者を募っていました。
その中で、
女性職員の手が挙がり、支援先では、大好評でした。
それで、これは
ニーズがあるぞという事で、それ以降は出来るだけ女性を入れるように努力しました。
全部の班で行けた訳ではありませんが、できるだけ加えるようにしました。
(駒月様)
実は、私は本当の初期段階の4月くらいに、最初の応募があった時に手を挙げていたのですが、その時は参加せず自主的に辞退しました。
理由は他の応援
職員が全員男性だったことです。
男性ばかりのなかに女性が入ると、受け入れる自治体に御迷惑をおかけすることになると思い、一度は辞退しました。
その後、ちょっと落ち着いてきてから女性が必要になってきたというお話をいただき、個人としては非常に行きたかったので、私でやれることがあればという思いもあり、行かせていただきました。